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医工連携 私の視点

横浜医工連携推進コーディネーター
真鍋 緑朗

Vol.35
R1.6.26
医療機器製造業経営者の事業承継(第2回)

2017年からIDEC横浜の医工連携推進コーディネーターとして活動中の真鍋コーディネーターは、もともと横浜市内で電子部品製造会社を経営していました。そこで経験した、中小企業が医療機器開発に取り組む上での様々な困難について、シリーズでお送りします。

医療機器製造業への脱皮

さて、勤務先かつ納入先の倒産という事態になりましたが「災い転じて福となす」、倒産した本多レントゲン製作所の納入先であった東芝系列の企業などから直接仕事を受けるようになりました。工場も横浜の自宅以外に東京の大門に町工場を借りて業容を拡大し、すべての損害を3年くらいかかって全額弁済することができました。そして昭和49年には恵比寿にも町工場を借り、法人として(有)室町製作所を設立するに至ったのです。仕事は更に増加してこの2工場も手狭になり、昭和54年には品川埠頭にある倉庫を借り、工場として整備して移転、新たな一歩を踏み出しました。

このころの発展には技術的な革新がありました。一つは、特殊な材料を使用した従来より小型の高圧コイルでした。それを制作する半自動巻線機も開発して生産能力がこれまでの2~4倍になりました。これにより受注が拡大し、さらに新しい小型の全波整流式X線発生器の開発を委託されることになりましたが、この開発には大きな壁がありました。小型化するために必要な高電圧ダイオードがなかったのです。しかし、父は当時安価で出回っていたテレビ用ダイオードに注目し、これをコンパクトな群にしてエポキシ樹脂で固定して絶縁度を強化することを東芝堀川工場の協力を得て成功し、昭和50年に小型全波整流式X線発生器が誕生しました。これがヒット商品となり、高電圧ダイオードはさらにオリジン電気の協力も得て他機種へ展開されていき、しだいに制御器の開発も委託されるようになり、それまでの歯科用X線発生器だけでなく、制御器も組み合わせた一般病院向けの携帯型や移動型X線診断装置を生産するようになりました。これまでのX線部品メーカーから装置メーカーへの脱皮です。この段階になり、品川工場で初めて薬事法に基づく医療機器製造業の許可を取得することになります。

このような事業展開で操業は東京の貸工場で行っておりましたが、横浜市港南区の工場は登記上の本社として残してありました。実はこのころから父は自社工場を持ちたいという夢を持っていましたが資金もわずかで諦めていたところ、幸いにも昭和52年に横浜市から工場用地分譲の案内があり希望の光がさしてきました。飛鳥田市長(後の社会党委員長)の六大事業の一つで、横浜市内の住宅と工場の混在による公害を解消するために、金沢沖埋立地に市内の中小企業を誘致することになり、それに申し込んだのです。現在では国内トップレベルの工業団地ですが、当時はまだダンプカーが走りまわって埋立てをしている状態でしたが、父は足を運んでは、このような荒野に出来上がる未来の工業団地と自社工場を夢見て準備を進めていきました。単独進出では信用もなく融資が受けられないので、電機精密機械関連企業で協同組合を設立し、お互いに連帯保証をして中小企業高度化資金の融資を受けて土地を取得し、昭和57年には建築が竣工し、品川工場は閉鎖して現在地で操業を開始することができました。私が大学4年の時で、自宅も港南区から金沢区並木に引っ越してまさに新しい生活が始まりました。

工作少年だったのに大学はなぜか理系ではなく商学部へ進んでしまった私も、このころは工場で現場作業のアルバイトをしていました。しかし卒業後は父の会社には入らず大手証券会社へ就職。いつかは継ぐこともあると思いつつ、もし父の会社がつぶれたら自分一人だけでも稼いでいないと暮らしていけないという両方の想いを抱えていました。

父の会社はその後も新しい機種の開発を次々と依頼され、売上も利益も次第に好調になっていきました。そんなときに神奈川県薬務課の立ち入り調査が入り、一部適切に薬事申請されていない機種が見つかり、是正できるまで製造中止という事態が発生してしまいました。当時父は「薬事法違反でつかまるかもしれない」と私に漏らしていました。実際はそんな深刻な違反でなく指導・是正で済むレベルでしたが、基本的に管理というものがまったく出来ていない工場でした。

ちょうどそのころ母から「そろそろ会社を手伝ってくれないか」と声がかかり、私も証券会社法人営業を2年間終えたところで、気持ちの切り替えもできていて、昭和60年4月にとうとう父の会社に入社することになりました。当時は現場の作業者が自ら部品の発注までやっていて、製品原価も把握できていない状態でした。私は現場作業の経験を積みながら、徐々に生産管理に取り組み、母が担当していた経理・総務も引き継いで管理部門を一人で回すようになりました。

しかし、当時の私は気ばかりあせっていて、多くの社員とぶつかりました。「一を聞いて十を知れ、言わなくてもわかるだろう」という考えで随分生意気で失礼な発言をしていました。30才近くなって童門冬二の「小説上杉鷹山」を読んでからでしょうか、組織を変革するためには、自分の想いを人に伝えるのにどれだけの努力をしなければならないのか思い知らされた気がします。

その後、薬事法でも品質管理に対する要求が徐々に強くなってきて、GMP(医療機器の品質管理体制)を求められるようになり、私がその担当としてシステムの構築に携わっていくことにもなりました。(続く)

 

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